創業者:伊豆 孝司
| 幼少期 | 大阪市城東区の今里商店街で定食屋を営む両親のもとに生まれる。小学生の頃より出前の配達を手伝う。年越しそばの配達で同級生の家に配達するのが屈辱で、「跡は継がない」と心に決めて過ごす。 |
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| 高校時代 | 明星高校野球部でキャプテン・3番ショートとして選抜甲子園大会に出場。初打席でのクリーンヒットとアルプススタンドの歓声が、その後の人生を支える原点となる。 |
| 卒業後 | 日新火災に就職し、営業職としてキャリアをスタート。24歳で社内結婚し、東大阪市花園本町に新居を構える。25歳で長男周久(ちかひさ)が誕生。 |
| 1970年 | 32歳で代理店として独立。「近畿損害保険事務所」を設立。 高度成長期の中、損害保険の販売で業績を順調に伸ばす。息子の周久も自身と同じ明星高校野球部へ。大学卒業後、同じ日新火災に就職させる。 |
| 晩年 | 50歳を過ぎて糖尿病を発症。58歳時には糖尿性網膜症により失明という大きな試練に直面する。この失明がきっかけとなり、1996年、日新火災に勤務していた長男・周久に後継を託す決断をする。 |
| 1999年 | 胆管がんを患い、享年62歳で他界。その「既存のお客様とより深い関係性を築くことを第一とする」という営業スタイルは、今も近畿総合保険の中に生き続けています。 |
二代目:伊豆 周久(現代表)
| 1984年 | 父と同じく日新火災に入社し、12年間勤務。仕事への自信がつき、「さあこれから」という矢先に、失明した父のサポートのため帰郷を決意。 |
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| 1996年 | 34歳で、近畿損害保険事務所に入所。 失明した父を助手席に乗せ、お客様への引継ぎと挨拶回りに奔走する日々が始まる。当初は道を覚えるのに苦労した。父から引き継いだお客さまの多くが今でも弊社とお付き合いをしてくださっているが、それは父が雲の上で一緒になって営業をしてくれているからだと思う。 |
| 1997年 | 父の遺言であった「義理・人情・プレゼントの生命保険販売には手を出すな」に反し、「損害保険だけではお客様を守りきれない」という強い想いから生命保険代理店業に着手(アリコジャパン販売開始)。 |
| 1999年 | 父の逝去に伴い、37歳で近畿損害保険事務所の所長に就任。 |
| 2003年 | 「有限会社 近畿総合保険」を設立し、代表取締役に就任。 |
| 2007年 | 「保険ショップ」の先駆けとして「保険クリニック 東大阪店」を開業。新たなチャレンジだったが、価格競争に陥り、お客様との深い人間関係が築けない現実に直面する。 3年間の奮闘の末、保険ショップの閉店を決意。この保険ショップでの経験から初心である、「既存のお客様との関係性を深め、そこから裾野を広げる」という現在の営業スタイルへの回帰と強化に至る。 その後、リーマンショックなど幾多の浮き沈みを乗り越え、お客様に支えられながら成長を続ける。 |
| 2021年 | 59歳で、次の世代への継承が最大のテーマと考え、後継者候補として平島慶一氏(当時37歳、前職 日新火災海上保険)が入社。 「これからの30年は全く違う。たくさんチャレンジし、たくさん失敗してほしい」と次世代への期待を込める。 |
| 現在 | 代理店業界の高齢化が進む中、「跡継ぎがいない代理店、廃業を考えている代理店の信頼される受け皿となる」ことを目指し、同業他社との合流も進めている。 |
三代目候補:平島 慶一(現専務取締役)の入社経緯
日新火災に勤務していた平島は、仕事で多忙を極める中、父の病や逝去、第二子の誕生という人生の大きな転機を経験。
関西帰任後、担当代理店として伊豆社長と出会う。
伊豆社長の「代理店の仕事はいいぞ」「平島みたいな若い人が来てくれたら」という温かい誘いに、当初は冗談かと思っていた。
しかし、包み隠さず会社の歴史や決算まで見せてくれるそのオーラと人柄に次第に真剣に考えるように。
「一度きりの人生、チャレンジしてみよう」と決断できたのは、他ならぬ伊豆社長だったから。
2021年4月(37歳)、近畿総合保険に入社。
お客様への「守り」のバトンは、今、次なる世代へと渡されています。